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東京地方裁判所 平成8年(ワ)11892号 判決 1998年3月17日

本訴原告・反訴被告(以下「原告」という。)

富士重工業株式会社

右代表者代表取締役

川合勇

田中毅

右訴訟代理人弁護士

大原誠三郎

菊地健治

本訴被告・反訴原告(以下「被告祐司」という。)

関川祐司

本訴被告(以下「被告雄三」という。)

関川雄三

右両名訴訟代理人弁護士

栄枝明典

主文

一  原告は被告祐司に対し、一〇万円及びこれに対する平成九年九月一三日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告の本訴請求及び被告祐司のその余の反訴請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、本訴について生じた部分は原告の負担とし、反訴について生じた部分はこれを六分し、その一を原告の負担とし、その余を被告祐司の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

(本訴)

被告祐司及び被告雄三は原告に対し、連帯して三三八万九七七九円並びに内一七〇万円に対する平成七年九月一五日から支払い済みまで及び内五〇万円に対する平成八年二月一日から支払い済みまでそれぞれ年五分の割合による金員を支払え。

(反訴)

原告は被告祐司に対し、六〇万円並びに内一〇万円について平成三年八月一日から支払い済みまで及び内五〇万円について反訴状送達の日の翌日(平成九年九月一三日)から支払い済みまでそれぞれ年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

原告の社員であった被告祐司は、在職中、原告が実施している海外企業研修員派遣制度によってアメリカ合衆国に派遣された。本件は、原告が被告らに対し、派遣費用返済合意に基づき、右派遣費用の返済を請求したのに対し、被告らは右返済合意は無効であると主張し、被告祐司が原告に対し、既払分を不当利得として返還請求するとともに、本訴の提起は違法であるとして慰謝料等を請求した事案である。

一  争いのない事実

1  被告祐司は、昭和五八年四月より平成二年七月二七日まで原告に雇用されていた。

2  原告には、社員をアメリカ合衆国などの外国に派遣する海外企業研修員派遣制度があり、海外企業研修員派遣規則(以下「本件規則」という。)によって、派遣が実施されてきた。

本件規則第一二条には、「研修員が研修期間中、または研修終了後五年以内に退職する場合、海外企業研修員取扱規則第三条、及び本派遣規則第九条に基づいて会社が負担した費用の全額または一部を返済させることがある。」と規定されている。

3  被告祐司は、本件規則に基づき、昭和六三年四月より、海外企業研修員としてアメリカ合衆国に派遣された(以下「本件派遣」という。)。本来の研修期間は平成二年四月までであったが、被告祐司は原告の指示で同年一月に帰国した。

4  被告祐司が同年七月ころ原告に対し退職を申し出たところ、原告は被告祐司に対して、本件規則第一二条に基づき本件派遣の費用の返済として四五二万七二八一円の支払いを要求した。

5  被告らは原告に対し、平成三年四月四日、次の内容の覚書にそれぞれ署名捺印して提出した(以下「本件合意」という。)。

「原告に対し、被告祐司は左記のとおり被告祐司の海外企業研修員派遣費用を返済する義務を負う。また、被告祐司の連帯保証人被告雄三は被告祐司に連帯して原告への返済の責めを負う。

返済金額 三四八万九七七九円

返済期日、金額

(1) 平成三年七月末日まで一〇万円

(2) 平成四年一月末日まで三〇万円

(3) 平成五年一月末日まで四〇万円

(4) 平成六年一月末日まで五〇万円

(5) 平成七年一月末日まで五〇万円

(6) 平成八年一月末日まで五〇万円

(7) 平成九年一月末日まで六〇万円

(8) 平成一〇年一月末日まで 五八万九七七九円」

6 被告祐司は本件合意に基づき、平成三年七月ころ、原告に対し一〇万円を支払った。

二  争点

1  本件合意の有効性

(被告らの主張)

本件合意は無効である。

(一) 返還すべき派遣費用は存在しない。

被告祐司は、アメリカ合衆国へ留学させてもらったのではなく、また研修を受けたのでもなく、アメリカ合衆国にある原告の関連会社スバルオブアメリカ(以下「SOA」という。)に出向させられて労働していたのである。被告祐司のアメリカ合衆国赴任は、原告の業務命令によるものであって、単なる研修ではなく実際に原告のために労働していたのであるから、赴任のための費用は原告が負担するのが当然であって、この返還を求めることはできない。

(二) 本件合意は、労働基準法(以下「労基法」という。)一六条、一四条及び五条並びに憲法二二条に反し、無効である。

被告祐司は原告に対し、本件派遣前から、本件規則第一二条等により、帰国後五年以内に退職した場合には派遣にかかった費用をペナルティとして支払うことを約束させられていた(以下「派遣前の約束」という。)。右約束は、海外からの帰国後一定期間勤務する約定についての違約金の定めであり、労基法一六条の定める賠償予定禁止に該当する。被告祐司は、退職直前に、派遣前の約束に基づく返済を求められ、支払方法等について本件合意のとおりの内容で返済することを約束し(以下「退職直前の約束」という。)、退職後前記覚書に署名押印した。派遣前の約束は労基法一六条により無効であるから、その支払方法を定めたにすぎない退職直前の約束及びこれを文書化した本件合意もまた無効である。

また、海外赴任して労働した労働者が帰国した後に退職しようとするときに、原告が当該労働者に対して赴任に要した費用の支払を求めるのは、労働者を違法かつ不当に足止めしようとするものであり、労働者の退職の自由及び職業選択の自由を侵害するものであって違法である。

(三) 被告祐司は、派遣前の約束あるいは退職直前の約束が無効であったとは知らず、本件合意を締結したのであるから、本件合意締結には、動機に錯誤がある。原告は、被告祐司が右各約束に従わなければならないと考えていたからこそやむなく覚書に調印したことを知っていたもので、被告祐司が動機の錯誤に基づき意思表示したことにつき悪意であった。よって、本件合意は、錯誤により無効である。そして、被告祐司の義務が無効ならば、付従性の原則から、被告雄三の保証債務も当然無効である。

(四) 被告祐司は、本件合意を原告の詐欺によって締結したものであるから取消す。

本件合意は、公序良俗違反、信義則違反により無効である。

(原告の主張)

(一) 原告は、本件派遣前に被告祐司に対し、ペナルティあるいは損害賠償などという文言で派遣費用の返還を義務化した事実はない。被告らの原告に対する本件派遣費用返済義務は、本件合意締結までは何ら法的、確定的な義務ではなかった。本件規則第一二条の文言は「返済させることがある」であり、返済を強制する根拠条文にはならない。また、派遣される研修員の応募は本人の任意、自由意思に基づいて行われており、派遣費用の返済の合意は労働契約上の義務とはなんら関係がない。本件合意は被告祐司の退職後に締結されており、「賠償予定」にあたらないし、「不当に足止めする」ことにはならない。

(二) 被告らには錯誤は存しない。仮に、錯誤が存していても、その主張をすることは許されない。本件合意は、私法上の和解契約の性質を有する。互譲の点も、争いを止めるために、原告は金額及び支払方法について譲歩し、被告らはなんら義務化されていない派遣費用の負担に応じ新たな義務を発生させた。和解契約はたとえ錯誤があっても、和解により争いを終結することにその意義があるのであるから、被告らの主張は民法六九六条により許されない。被告らの錯誤の原因は、本件規則の読み違えに由来するから、錯誤につき悪意であるか、あるいは重大な過失がある。原告は被告らの錯誤を知らなかった。

2  反訴請求について

(被告祐司の主張)

(一) 不当利得返還請求

前記のとおり、本件合意は無効である。従って、本件合意に基づいて被告祐司が原告に支払った一〇万円を、原告は不当に利得している。原告は、本件合意が労基法違反であることを承知のうえで支払を求めたものであり、悪意である。

(二) 不法行為による損害賠償請求

本訴は、原告が労基法違反の請求であることを熟知したうえで提起したものであり、違法な不当訴訟である。本訴により、被告祐司は精神的損害を被り、これを金銭に評価すれば二五万円をくだらない。また、被告祐司は平成八年七月、被告ら代理人に本訴の代理人として訴訟活動を依頼し、同月一一日、着手金として二五万円を支払った。

(原告の主張―相殺の抗弁)

原告は被告祐司のため、本件派遣前に語学研修費用八二万二〇〇〇円を出費している。この語学研修費用は、原告が負担する旨の規定が何ら存在しないため、本来被告祐司において負担すべきものであり、被告祐司は法律上の原因のない利得を得ている。原告は被告祐司に対し、平成一〇年二月三日の本件口頭弁論期日において、右不当利得返還請求権をもって、被告祐司の反訴請求債権とその対当額において相殺する旨の意思表示をした。

(相殺の主張に対する被告祐司の答弁)

本件派遣前の語学研修は、原告の業務命令によるものである。また、被告祐司には、右語学研修を受講したことによる利得はない。

第三  争点に対する判断

一  前記争いのない事実、証拠(甲四の一ないし三、五ないし一四、乙二ないし四、証人高橋充、被告祐司本人)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

1  原告には、社員を海外の企業に派遣して研修させる海外企業研修員派遣制度がある。その目的は、国際的な企業活動の場で充分活躍できる人材を育成することであり(本件規則第一条)、研修員は、派遣先の海外の企業において、派遣先企業の従業員と同じように働いて実務を経験しながら、販売管理、ディーラー管理、アフターサービス、技術開発、生産管理、資材管理等について研修する。派遣先の海外企業は、主として原告の海外関連企業とする(同第三条)と規定されているところ、具体的には主にアメリカ合衆国において、最初の一カ月はSOA本社に、残りの二三カ月はSOA傘下のディストリビューター(中間卸業者)に派遣されていた。SOAは原告の製造する車等の輸入商社であり、当時、原告はSOAの株式の四九パーセントを所有していた。派遣期間は原則として二年間である(同第四条)。研修員は、勤続二年以上の従業員で所属長の推薦により選考試験に応募した者の中から、語学や業務知識、一般常識等の選考試験の結果を勘案して人事部長が選定する(同第五、第六条)。研修中の賃金は、原則として派遣先の基準に従い派遣先企業が支給するが、派遺先企業からの支給額が一定額に満たない場合は、原告が差額を支給する。

2  被告祐司は、昭和六二年一一月ころ海外企業研修員に応募し、選考試験を経て研修員に選定され、昭和六三年四月より海外企業研修員としてアメリカ合衆国に派遣された。被告祐司は、原告から、当時経営状態が悪化していたSOAの経営内容を調査して原告に報告するよう指示され、通常の研修員と異なリディストリビューターには派遣されず、研修期間中ずっとSOA本社財務部に派遣され、SOA本社において、本来の研修の他に、右調査及び報告を行った。また、ときには、原告の指示で、SOAの業務を離れ、アメリカ合衆国内の原告の業務に従事したこともあった。被告祐司の本来の研修期間は平成二年四月までであったが、被告祐司は原告の指示で同年一月に急遽帰国した。なお、この年、原告はSOAを買収した。

3  本件規則第一二条には、研修員が研修終了後五年以内に退職する場合には、原告が負担した派遣費用の全額または一部を返済させることがある旨記載されているところ、原告は、研修員の海外派遣前に、被告祐司ら研修員に対し、本件規則をよく読んでおくように指示するとともに、説明会等で、帰国後五年以内に退職する場合は派遣費用を返済しなければならないと説明していた。被告祐司は、右規定や説明により、研修終了後五年以内に退職する場合には、派遣費用の全額または一部を返済しなければならないことを了解したうえで、本件派遣に赴いた。原告は、研修終了後五年以内に本人の意思で退職した研修員に対し、本件規則第一二条により派遣費用を返済するようにと請求し、請求された研修員は請求に従って派遣費用を返済しており、被告祐司もそのことを知っていた。

4  被告祐司が平成二年七月ころ、人事部長に対して退職を申し出たところ、人事部担当者は被告祐司に対して、本件規則第一二条により派遣費用四五二万七二八一円を返済するよう請求した。なお、その内訳は、被告祐司及びその妻の赴任及び帰任時の各航空券代や荷造運送費、トランクルーム賃借料等である。

しかし、被告祐司は右人事部担当者に対し、他の研修生と異なり、研修中SOAの本社においてその財務内容の調査及び報告をして原告のために働いたことや、研修期間途中で急遽帰国させられたことを配慮して欲しいし、高額であり一括返済はできないなどと主張したので、原告は被告祐司に対し、請求の一部を免除して支払方法を分割払いとした案を提示したところ、被告祐司も了解して、被告らは前記覚書に署名押印して原告に提出し、本件合意に至った。

二  本件合意の有効性(争点1)について

右認定事実によれば、本件派遣前に、原告と被告祐司との間で、被告祐司が研修終了後五年以内に退職したときは、原告に対し派遣費用を返済するとの合意が成立していたことが認められる。しかし、被告祐司は、自分の意思で海外研修員に応募したとはいえ、前記認定事実によれば、本件研修は、原告の関連企業において業務に従事することにより、原告の業務遂行に役立つ語学力や海外での業務遂行能力を向上させるというものであって、その実態は社員教育の一態様であるともいえるうえ、被告祐司の派遣先はSOA本社とされ、研修期間中に原告の業務にも従事していたのであるから、その派遣費用は業務遂行のための費用として、本来原告が負担すべきものであり、被告祐司に負担の義務はないというべきである。そうすると、右合意の実質は、労働者が約定期間前に退職した場合の違約金の定めに当たり、労基法一六条に違反し無効であるというべきである。

原告は、本件規則第一二条の文言は「返済させることがある」であり、返済を強制する根拠条文にはならず、被告らの原告に対する本件派遣費用返済義務は、本件合意締結までは、何ら法的、確定的な義務ではなかった旨主張する。しかし、右第一二条が、原告が派遣費用の返済を請求した場合には、研修員に返済義務があるという意味であることはその文言自体からも明らかであるし、前記認定事実によれば、原告も、研修員が研修終了後五年以内に退職したときは派遣費用を返済する義務があることを前提に、派遣前の研修員に右義務の説明をしたり、退職した研修員に返済を請求していたことが認められ、原告の右主張は採用できない。

そして、前記認定事実によれば、本件合意は、被告祐司に本件派遣費用返済義務があることを前提として、その返済金額及び支払方法について合意されたものであるところ、右のとおり、被告祐司には右義務が存在しなかったのであるから、被告祐司には、本件合意の前提事実について錯誤がある。したがって、原告と被告祐司との間の本件合意及びこれを連帯保証した被告雄三と原告との間の本件合意は無効である。原告は、民法六九六条の適用を主張するが、右のとおり、本件合意締結にあたって、原告と被告らとの間で、本件派遣費用返済義務の存否は争点とはなっていなかったのであるから、本件合意によって返済義務の存否までは確定しておらず、同条の適用はないというべきである。また、前記のとおり、本件規則第一二条の文言が、研修員に返済義務がないことを明示しているとはいえないから、これを前提として、被告らには錯誤につき重過失があるとの原告の主張も採用できない。したがって、原告の本訴請求は理由がない。

三  反訴請求(争点2)について

(一)  不当利得返還請求について

前記二で認定したとおり、本件合意は無効であるから、原告は被告祐司が本件合意に基づいて支払った一〇万円を不当利得しているというべきである。しかし、本件合意が無効であることにつき原告が悪意であったと認めるに足りる証拠はないから、原告は被告祐司に対し、一〇万円の返還を請求された反訴状送達の日の翌日から支払済みまでの遅延損害金を支払えば足りる。

(二)  不法行為に基づく損害賠償請求について

本件合意が労基法一六条に違反していることを原告が知っていたと認めるに足りる証拠はないから、その余の点について判断するまでもなく、被告祐司の不法行為に基づく損害賠償請求は理由がない。

(三)  相殺の抗弁について

甲一八、一九によれば、原告が本件派遣前に、被告祐司の語学研修費用として、語学学校に八二万二〇〇〇円を支払ったことが認められる。しかし、前記認定事実及び乙七によれば、原告は被告祐司に、本件派遣実施に必要な語学力を修得させるために、右語学学校に通うように命じたものであることが認められ、右語学研修費用も原告が負担すべき費用というべきであって、原告の不当利得の主張は理由がない。

四  以上によれば、原告の本訴請求は理由がないので棄却し、被告祐司の反訴請求のうち、一〇万円の不当利得返還請求及びこれに対する反訴状送達の日の翌日である平成九年九月一三日から支払い済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払請求は理由があるので認容し、その余の反訴請求は理由がないので棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官白石史子)

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